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Home > 政治 > 08洞爺湖サミット・カギ握る日本 > 北の国からのエッセイ

08洞爺湖サミット・カギ握る日本

北海道洞爺湖サミットに寄せて「北の国からのエッセイ(2)」 (2008.01.07)
赤い靴物語

♪ 赤い靴 はいてた 女の子 異人さんにつれられて 行っちゃった ♪

昨年11月、小樽運河の一角で地元合唱団の澄んだ歌声が冷たい北風にのって運河に流れた。 赤い靴のモデルとなった岩崎きみの家族のブロンズ像の除幕式が行われた。(写真左)

小樽はきみの母親岩崎かよと、かよの夫鈴木志郎が永久の眠りについたところである。 大正時代に作られた童謡「赤い靴」の像ほど、全国あちこちに建立された像を他に知らない。

もの悲しい旋律と異人さんに連れられていく歌詞が人の心を打つのであろうか。これで赤い靴の像は5か所になる。師走の一日、きみの親の足跡と面影を求めて小樽を徘徊してきた。

< 5か所もある「きみちゃん像」 >

きみは明治35年、日本平の麓、静岡県旧不二見村(その後、清水市に編入、さらに合併し現・静岡市)で生まれた。父親はだらしのない人だったといわれ、母親、岩崎かよは未婚の母としてきみを育てた。

故郷の不二見村が見渡せる日本平に、かよときみの母子像がある。(写真右)  かよはその後、函館にわたり、そこで知り合った鈴木志郎と結婚する。きみが2歳のときである。

志郎はユートピアを求めて蝦夷富士・羊蹄山を仰ぐ留寿都(ルスツ)村に入植する決意をする。留寿都村はちょうど札幌と洞爺湖の中間に位置し、いまではアスパラやジャガイモなどの豊かな農作物と、スキー場のあるリゾートとして知られている。

しかし、当時は人の手の入ってない山深い原生林である。母親かよはこれから始まる開拓の厳しい生活に、幼な子を連れていくことは無理だとして、知り合った函館のアメリカ人宣教師夫妻にきみを預け、きみは牧師の養女となる。

理想に燃えて留寿都に入植した志郎は、仲間と一緒に「平民農場」をつくり懸命に働くが、過酷な労働と厳しい気候に仲間は倒れ、住んでいた小屋が火事にあってついに開拓をあきらめ、わずか2年余で失意のうちに留寿都を去る。

この留寿都には母を思うきみの「母思像」が建てられている。(写真下左)

また志郎とかよが働きつづけた当地には開拓百年を記念して、かよがモデルの「開拓の母の像」が、きみの母思像とは別々に建てられ、開拓期の母娘の悲哀が後世に語り継がれている。(写真下右)。

< 野口雨情との出会い >

留寿都から札幌に移り住んだ志郎は小さな新聞社に職をみつけるが、そこで同じ新聞社に勤めていた野口雨情と知り合う。かよは同じ長屋に住んでいた雨情にきみの事を打ち明け、いまごろはアメリカに行っているかもしれないと話す。雨情はきみの話を聞くたびに、赤い靴の女の子のイメージを膨らませたと思われる。

雨情自身も長女をわずか7日でなくしており、夭折した子供を

♪ しゃぼん玉消えた 飛ばずに消えた 生まれてすぐに こわれて消えた・・・♪

と「シャボン玉」に詠ったといわれている。

赤い靴は大正10年雨情によって詠まれ、翌11年本居長世(もとおりながよ:汽車ポッポ・七つの子などの作曲家)によって作曲され世に出る。この歌について雨情は次のように述べている。

「この童謡は表面から見ただけでは単に異人さんにつれられていった子供といふにすぎませんが、赤い靴とか、青い眼になってしまっただらうといふことばのかげには、その女の児に対する惻隠の情がふくまれてゐることを見遁さぬやうにしていただきたいのであります。」(童話と童心芸術・大正14年)

雨情の気持ちを知ってか知らずか、後年、赤い靴の歌を聞いたかよは 「雨情さんがきみちゃんのことを詩にしてくれたんだよ」とつぶやきながらこの歌をよく歌っていたという。きみの幸せと、養女に出した自責の気持ちをこめて歌を噛みしめたことだろう。

< きみのアメリカ行きの真相 >

ところが きみがアメリカに渡ってなかったということが、関係者がすでになくなった昭和50年代になって判明する。「雨情の赤い靴に書かれた女の子は、まだ会ったこともない私の姉です」

当時の北海道新聞に掲載された、かよと志郎の間で生まれた娘のショッキングな投稿記事がきっかけとなって、熱心なジャーナリストによって日米で追跡調査が進められ、事実が明らかになってくる。

日本での任務を終えたアメリカ人宣教師は、帰国するため6歳になったきみをつれて横浜に向かう。

出発前にきみは、不幸にも当時不治の病といわれていた小児結核に冒されていた。病弱のきみが1ヶ月の太平洋を越える船旅は無理と判断され、アメリカ人宣教師はきみを孤児院に託して帰国する。 横浜からサンフランシスコまでの当時の船旅は、明治新政府に請われて北海道にきたクラーク博士など、お雇い外国人の記録に、木の葉のように揺れる船の中で乗客がぐったりする模様が克明に描かれている。

横浜港に近い山下公園にはひとり残された「赤い靴をはいていた女の子の像」が海に向かって立っている。2歳のとき実の母親と別れ、6歳で養父母と別れたきみの薄幸が胸に熱く迫る像でもある。

♪ 横浜の 波止場から 船に乗って   

        異人さんに つれられて 行っちゃった ♪

童謡赤い靴の二番の歌詞である。きみは東京の麻布の孤児院で過ごすが、9歳のときに帰らぬ人になる。

麻布の孤児院跡にはきみの心安らかな眠りを祈り、愛の絆を託したきみの赤い靴の碑が立っている。(写真左)

 アメリカに行って幸せに暮らしているであろうと思い込んでいた(願っていた)母親かねにとって、きみのその後を知ることがなく世を去ったのはもしかしたら幸せだったかもしれない。

雨情もきみのその後の消息を知っていたなら、童謡「赤い靴」は生まれてこなかったであろう。

< 敬虔なクリスチャン >

かねの夫、鈴木志郎はその後札幌から小樽の新聞社に移り、そこで石川啄木と親交をもつ。啄木の「悲しき玩具」に「名は何と言いけむ、姓は鈴木なりき、今はどうしてゐるらむ」と記されている。

新聞社をやめた志郎とかね夫婦は、敬虔なクリスチャンとなって晩年小樽で祈りの生活をおくる。坂の多い小樽の高台にあるカトリック富岡教会を、道路が凍っている足元を気にしながら訪ねた。

ここに志郎とかねは眠っていた。ひっそりとたたずむ富岡教会は小樽の歴史を伝える建物として市の有形文化財に指定されていた。
 
5番目の赤い靴の像は、当初この富岡教会に立てられる予定だった。ところが、予想をはるかに上回る1000万円近い募金が、全国から集まり、市民や観光客が気軽に立ち寄れるようにと、観光地の小樽運河の一角に立てられた。
 
石造りの倉庫群をバックに建てられたブロンズ像は、母親のかねがきみと手を重ね、夫の志郎がそっときみの肩に手を添えていた。初めて親子3人が一同に寄り添ったぬくもりのある像となっている。
 
台座には赤い靴の歌詞が刻まれていた。赤いボタンを押すと哀愁を帯びたメロディーが流れた。

< サミットプレスセンター >

かね夫婦が入植した留寿都村は、赤い靴の故郷としてすでに観光に一役買っている。

その留寿都村に、今年7月洞爺湖で開催されるサミット=主要国首脳会議のプレスセンターが置かれることになった。村の開拓始まって以来の千人を超える世界のジャーナリストでごった返すことであろう。

童謡が世に出て85年、アメリカに渡るはずだった赤い靴のきみちゃんが、アメリカのジャーナリストの目にとまるであろうか。
 
それとも留寿都村のもう一つの銅像
「指圧の心母心 押せば生命の泉わく」の像に目がむくであろうか。

赤い靴とは対照的に全国に笑顔と幸せを振りまき、一世を風靡した浪越徳治郎はこの地が古里である。(寄稿=望田 武司)


望田 武司(もちだ・たけし)1943年生まれ 新潟県出身
1968年NHK入局 社会部記者、各ニュース番組デスク・編責担当
2003年退職し札幌市在住、現在札幌市の観光ボランティアをしながら自然観察に親しむ。



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